晶子詩篇全集拾遺

與謝野晶子

晶子詩篇全集拾遺書籍情報

底本:「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社
   1980(昭和55)年8月10日第1刷発行
   「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社
   1980(昭和55)年12月10日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※標題のない作品については、[無題]と記載しまた。
※各詩編の行の折り返しは、底本では1字下げになっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出、収録された単行本等に関する情報は、ファイルに含めませんでした。
入力:武田秀男
校正:kazuishi

晶子詩篇全集拾遺 2

與謝野晶子

   ○
むかしとは若き日のこと、
昔にもまさり恋はると、
云ふことが、心より、
うれしきや、よろこぶや。
   ○
灰色の壁による人。
みづいろの玻璃(はり)の板による。
金色(こんじき)の雲による。
自(みづか)らは男によれる。
   ○
檀那をば彼は忘れず、
肩すぎてブロンドの髪ゆらめきし、
わざをぎ男目に消えぬごと。
   ○
手さぐりに人心よぢてゆく、
女の恋のはかなかりけれ。
かの時より死の友となりけれ。
   ○
眠りたる心をば、呼び起すとて、
線香花火、青なると、
うす紫と、くれなゐと、
ばらばらばつと焚き給ふ君。
   ○
何方(いづかた)に向きて長ぜむ。
かく人は眉をひそめぬ。
わが心今日も昨日も夢のみを見る。
   ○
われは思ひき、毒婦ならまし。
ある宵にかたへ聞きせる
不幸なる運命の
性(しやう)を変へむと、十五より。
   ○
ひとびとが憚らず、
声放ち歌ふ時、
君は知れりや、悲しみよりも、
悦びは少しみにくし。


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 大正二年


  巴里雑詠

巴里(パリイ)の宿の朝寝髪、
しろい象牙の細櫛で
梳けばほろほろ、あさましく
昨日も今日も落ちること。

君に見せじと、物かげに
隠れて梳けば、わが額(ぬか)の
鏡にうつる青白さ。
身のすくむまでうら悲し。

巴里の街の橡(とち)の葉は
はや八月に散りかかる。
わたしの髪もこの国の
慣れぬ夜風に吹かれたか。

いいえ、それとも、憎らしく、
しろい象牙の細櫛が
鑢となりて擦り切るか。
恋を貪るこらしめに。

または悲しい人の世の
命の秋の入口に、
わたしも早く著きながら、
真夏の花をまだ嗅ぐか。

梳けばほろほろ、堪(こら)へかね、
昨日の恋が、今日の血が、
明日(あした)の夢が泣きじやくる。
からんだ髪を琴にして。

心ひとつは若々と、
かをる油に打浸り、
死なぬ焔を立つれども、
ああ灰のよに髪が散る。


  秋の朝(あした)

卓の上から二三輪
だりあの花の反りかへる
赤と金とのヂグザグが
針を並べた触をして、
きゆつと瞳を刺し通し、
朝のこころを慄はせる。
見返る角(かく)な鏡にも
赤と金とのヂグザグが
花の酒杯(クウプ)を尖らせて、
今日の命を吸へと云ふ。

それに書斎の片隅の
積んだ書物の間から、
夜の名残をただよはす
蔭に沈んで、寒さうに、
痩せた死人の頬を見せる
青いさびしい白菊が、
薬局で嗅ぐ風のよに
苦いかをりを立てるのは
まだ覚め切らぬ来し方の
わたしの夢の影であろ。


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 大正三年


  ひるまへ

てれ、れん、れんと鳴り出した。
つて、れん、れんと鳴り出した。
それは傴僂(せむし)のマンドリン、
昼まへに来るマンドリン
歌もうたやるマンドリン。

窓の硝子(がらす)に寄つたれば、
白いレエスの冷たさよ。
お城の壁に紅葉(もみぢ)した、
蔦の葉のよな襟かざり。
上を見上げる襟かざり。

ちり、りん、りんと一(アン)スウの
小(ちさ)い銅貨が敷石の
上で立てたる走り泣き。
初めのお客は誰れであろ、
わたしも投げてやりませう。

今朝の夜明の四時過ぎに、
誰れかとしたる喧嘩から、
ずつと泣いてたお隣の、
夫人(マダム)の顔をちよいと見た。
向うもわたしをちよいと見た。

思はず髪を引き入れた、
白い四階の窓口へ、
(巴里(パリー)は今日も薄曇り)
湿つた金薄(はく)[#「金薄」はママ]を撒くやうに、
アカシヤの葉が散りかかる。


  ノオトル・ダアム

ああ巴里(パリー)の大寺院ノオトル・ダアムよ、
年経しカテドラルの姿は
いと厳かに、古けれど、
その鐘楼の鐘こそは
万代に腐らぬ金銅の質を有(も)ちて、
混沌の蔓の最先(いやさき)にわななく
青き神秘の花として開き、
チン、カン、チン、カンと鳴る音は
爽かに清(す)める、
劇しき、力強き、
併せて新しき匂ひを
「時」の動脈に注しながら、
「時」の血を火の如く逸ませ、
洪水(おほみづ)の如く跳らせ、
常に朝の如く若返らせ、
はた、休む間なく進ましむ。
その響につれて
塔の上より降(くだ)る鳥の群あり、
人は恐らく、そを
森の梢より風に散る
秋の木(こ)の葉と見ん。
我は馬車、自動車、オムニブスの込合ふサン・ミツセルの橋に立ちつつ、
端なく我胸に砕け入る
黄金(きん)の太陽の片と見て戦(をのの)けり。
その刹那、わが目に映る巴里(パリー)の明るさ、
否(いな)、全宇宙の明るさ。
そは目眩(めくる)めく光明遍照の大海(おほうみ)にして、
微塵もまた玉の如く光りながら波打ち、
我も人も
皆輝く魚として泳ぎ行きぬ。


  覇王樹[#「覇王樹」は底本では「覊王樹」]と戦争

シヤボテンの樹を眺むれば、
芽が出ようとも思はれぬ
意外な辺が裂け出して、
そして不思議な葉の上へ
新しい葉が伸びてゆく。

ああ戦争も芽である、
突発の芽である、
古い人間を破る
新しい人間の芽である。

シヤボテンの樹を眺むれば、
生血に餓ゑた怖ろしい
刺(はり)の陣をば張つて居る。
傷つけ合ふが樹の意志か、
いいえ、あくまで生きる為。

ああ今、欧洲の戦争で、
白人の悲壮な血から
自由と美の新芽が
ずつとまた伸びようとして居る。

それから、
ここに日本人と戦つて居る、
日本人の生む芽は何だ。
ここに日本人も戦つて居る。


  晩秋

S(エス)の字がたの二人(ふたり)椅子(いす)、
背中あはせのいやな椅子、
これにあなたと掛けたなら、
この気に入つた和蘭陀(オランダ)が
唯だの一夜(ひとよ)で厭になろ、
その思出もうとましい。
ギヤルソン外[#「外」はママ]にいい部屋は無いの。
(アムステルダムの一夜)



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 大正四年


  温室

広き庭の片隅に
物古りたる温室あり、
そこ、かしこ、硝子(ガラス)に亀裂(ひび)入り、
塵と蜘蛛の糸に埋れぬ。

棚の上の鉢の花は皆
何をも分かず枯れたれど、
一鉢の麝香撫子のみ
はかなげに花小(ちさ)く咲きぬ。

去年(こぞ)までは花皆が
おのが香と温気とに
呼吸(いき)ぐるしきまでに酔ひつゝ、
額(ぬか)重く汗ばみしを、

今、温室は荒れたり、
何処(いづこ)よりか入りけん、
憎げなる虻一つ
昼の光に唸るのみ。


  〔無題〕

今夜巴里(パリー)は泣いて居る。
シヤン・ゼリゼエの植込も、
セエヌの水もしつとりと
青い狭霧に街灯の
涙を垂れて泣いて居る。


  〔無題〕

群をはなれて※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ランダに
君ただひとり立つなかれ、
今宵は空の月さへも
人の踊を覗けるに。

いざ君、室内(うち)の卓に凭り、
ワルツの曲を聞きながら、
夜(よ)ひと夜(よ)取れよ、花の香(か)と、
香料の香と、さかづきと、

女の燃ゆるまなざしと、
きやしやに艶(いろ)めく肉づきと、
軽き笑まひと、足取と、
さらに渦巻く愛と美と。


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 大正五年


  〔無題〕

せよ、怖い顔を、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の宝である
唯一の劒を大事にせよ。

せよ、賢相(かしこさう)な顔を、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の護符である
てんかこくかを口にせよ。
おまへ達は決して笑はない。
おまへ達の望んで居る
日独同盟の成る日が来るとも、
どうして神聖サムラヒ族の顔が崩れよう。

おまへ達は科学主義の甲(よろひ)を着て、
血のシンボルの旗の下(もと)に、
おまへ達の祖先である
南洋食人族の遺訓を行はうとする。

世界人類の愛に憧れる
われわれ無力の馬鹿者どもは
みんなおまへ達に殺されねばなるまい、
おまへ達が初めて笑ふ日のために。

併し……


  春より夏へ

八重の桜の盛りより
つつじ、芍薬、藤、牡丹、
春と夏との入りかはる
このひと時のめでたさよ。

街ゆく人も、田の人も、
工場(こうば)の窓を仰ぐ身も、
今めづらしく驚くは
隈(くま)なく晴れし瑠璃(るり)の空。

独(ひとり)立つ木も、打むれて
幹を出す木も枝毎に
友禅染の袖を掛け、
花と若芽と香り合ふ。

忙(せは)しき蝶の往来(ゆきき)にも
抑へかねたる誇りあり、
ただ一粒の砂さへも
光と熱に汗ばみぬ。

まして情(なさけ)に生くる人、
恋はもとより、年頃の
恨める中も睦み合ひ、
このひと時に若返る。

ああ、またありや、人の世に
之に比ぶる好(よ)き時の。
いでや短き讃歌(ほめうた)も
金泥をもてわれ書かん。


  西部利亜所見

汽車は吼ゆ。
されどシベリヤの
雪と氷の原を行く汽車は
胴体こそ巨大の象のやうなれ、
この怪獣は石炭の餌(ゑ)を与へられず、
薪のみを食らへば、
吼ゆる声の力無く、
のろのろと膝行(ゐざ)りゆく。

露西亜文字(ろしあもじ)を読み得ざれば、
今停まれるは何と云ふ駅か知らず。
荒野(あらの)の中の小き停車場(ステイシヨン)に
人の乗降(のりおり)も無く、
落葉したる白楊の木
其処此処に聳えて、
灰色の低き空の下(もと)
五月の風猶雪を散らせり。

汽笛の叫びに引かれて、
男、女、子供、
すべて靴を穿かぬ
シベリヤの農民等は
手に手に、大(おほい)なる雁を、
鶏を、牛乳を捧げて、
汽車の窓に馳せ寄り、
かしましく買へと云ひぬ。


  〔無題〕

わたしの庭の高い木に
秋が琴をば掛けにきた。
翡翠を柱(ぢ)とし、銀線を
絃(いと)にすげたる黄金(きん)の琴。
風は勝れた弾手にて、
人の心の奥にある
弧独の夢をゆり起し、
木(こ)の葉と共に泣かしめる。


  〔無題〕

うす紫と、淡紅色(ときいろ)と、
白と、萠黄と、海老色と、
夢の境で見るやうな
はかない色がゆらゆらと
わたしの前で入りまじる。
女だてらに酔ひどれて、
月の明りにしどけなく
乱れて踊る一むれか。
わたしの窓の硝子(がらす)ごし
風が吹く、吹く、コスモスを。


  炉の前

かたへの壁の炉の火ゆゑ
友の面輪も、肩先も、
後ろの椅子も、手の書(ふみ)も、
濃き桃色にほほゑみぬ。

部屋の四隅の小暗くて、
中に一もと寒牡丹
われと並びて咲くと見る
友の姿のあてやかさ。

春にひとしき炉の火ゆゑ
友も我身も、しばらくは
花の木蔭を行く如く
こゝろごころに思ひ入る。

楽しき由を云はんとし、
伏せし瞳を揚ぐる時
友も俄かに手を解きて
我手の上にさし延べぬ。


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 大正六年


  〔無題〕

わが前の丘に
断えず歌ふは
桃色に湧き上る噴水。
青白き三人の童子は
まるまると肥えし肩に
緑玉の水盤を支へたり。
われは、その桃色の水の
猛火に変るを待ちながら、
ぢつと今日も見まもる。


  元旦の歌

初春はきぬ、初春は
新たに焚ける壁の炉よ、
誰もこの朝うきうきと
身をくつろげて打向ふ。

初春はきぬ、初春は
誰の顔にも花にほひ、
誰の胸にも鳥うたひ、
誰の口にも韻の鳴る。

初春はきぬ、初春は
愛の笑まへる広場なり
雄雄しき人も恋人も
踊らんとして手を繋ぐ。


  我傍らに咲く花は

わが傍らに咲く花は
傷より滴(た)るゝ血の如し、
この花を見てかなしげに
思ひたまふや何ごとを。
嵐のあとに猶しばし
海の入日の泣くことか、
さては三十路(みそぢ)の更け行けど
飽くこと知らぬわが恋か。


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 大正七年


  冬の一夜

おお、錫箔の寒さを持つた夜の空気が、
いつぱいに口を開(あ)いて、
わたしを吸はうとする。
二階の欄干(てすり)に手を掛けながら
わたしの全身は慄へあがる。

屋外(そと)はよく晴れた、冴えた、
高々とした月夜。
コバルトと、白と、
墨とから成つた、素朴な、
さうして森厳な月夜。

月は何処にある。
見えない、見えない、
長く出た庇の上に凍てついて居るのか。
きつと、氷と、されかうべと、
銀の髪とを聯想させる月であらう。

軍医学校の建物はすべて尖り、
軒と軒との間にある空間は
遠くまで運河のやうに光つて居る。
近い一本の電柱は
大地へ無残に打ち込んだ巨きな釘の心地。

あの鈍い真鍮色の四角な光は
崖上の家の書斎の窓の灯火(あかり)。
今、わたしの心に浮ぶのは、
その窓の中に沈思して、恐らく、
まだ眠らずに居る一人の神経質な青年。

ああ世界はしんとして居る。
冬だ、冬だ、
空気は真白く、
天は玲瓏として透きとほり、
月は死霊(しりやう)のやうに通つて行く。

かさ、こそと、低く、
何処かにかすれた一つの物おと……
枝を離れる最後の落葉か、
わたしの心の秘密(ないしよ)の吐息か、
それとも霜であらうか。


  元旦の歌

やれ、春が来た、ほんのりと
日のさす中に、街々の
並木二側、梅ねずみ。

やれ、春が来た、この朝の
空は藤色、日本晴
下に並木の梅ねずみ。

やれ、春が来た、金の目が
どの窓からもさし覗く
そして並木の梅ねずみ。


  春の初めに

春の初めに打て、打て、鼓。
打てば小唄に、やれ、この、さあ、
四方(よも)の海さへ音(ね)を挙げる。

春の初めに振れ、振れ、袂。
振れば姿に、やれ、この、さあ、
天つ日さへも靡き寄る。

春の初めに舞へ、舞へ、舞を。
舞へば情に、やれ、この、さあ、
野山の花も目を開く。

春の初めに飲め、飲め、酒を。
飲めば笑らぎに、やれ、この、さあ、
福の神さへ踊り出す。


  夜の色

うれしきものは、春の宵、
人と火影(ほかげ)の美くしい
銀座通を行くこころ。
それにも増して嬉しきは、
夜更けて帰る濠ばたの
柳の靄の水浅葱(みづあさぎ)。


  一九一八年よ

暗い、血なまぐさい世界に
まばゆい、聖い夜明が近づく。
おお、そなたである、
一千九百十八年よ、
わたしが全身を投げ掛けながら
ある限りの熱情と期待を捧げて
この諸手をさし伸べるのは。

そなたは、――絶大の救世主よ――
世界の方向を
幾十万年目に
今はじめて一転させ、
人を野獣から救ひ出して、
我等が直立して歩む所以(ゆゑん)の使命を
今やうやく覚らしめる。

そなたの齎(もたら)すものは
太陽よりも、春よりも、
花よりも、――おお人道主義の年よ――
白金(はくきん)の愛と黄金(わうごん)の叡智である。
狂暴な現在の戦争を
世界の悪の最後とするものは
必定、そなたである。

わたしは三たび
そなたに礼拝を捧げる。
人間の善の歴史は
そなたの手から書かれるであらう、
なぜなら、――ああ恵まれたる年よ、――
過去の路は暗く塞がり、
唯だ、そなたの前のみ輝いて居る。


  見ずや君

「見ずや君よ」と書きてまし、
ひと木盛りの紅梅を。
否、否、庭の春ならで、
猶も蕾のこの胸を。


  〔無題〕

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
妬ましきまで、若やかに
力こもりて笑む花よ、
人の持つより熱き血を
自然の胸に得し花か。

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
この花を見て、傷ましき、
はた恨めしき思出の
何一つだに無きことも
先づこそ我に嬉しけれ。

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
人よ、来て訪(と)へ、この日頃。
我等が交す言の葉に
燃ゆる命の有り無しは
花に比べて知りぬべし。

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
この美くしく清らなる、
この尊げに匂ひたる、
花の証のある限り、
愛よ、そなたを我れ頼む。


  〔無題〕

おお、薔薇よ、
ゆたかにも、
うす紅く、
あまき香(か)の、
肉感の薔薇よ、
今日、そなたは
すべて唇なり。

花ごとに、
盛り上り、
血に燃えて、
かすかに戦(わなゝ)く
熱情の薔薇よ、
一切を吸ひ尽す
愛の唇よ。

その唇の上に、
太陽も、人も、
そよかぜも、
蜜蜂も、
身を投げて寄り伏し、
酔ひと夢の中に、
焼けて咽ぶ。

おお、五月の
名誉なる薔薇よ、
香ぐはしき刹那に
永久を烙印し、
万物の命を保証する
火の唇よ、
真実の唇よ。


  〔無題〕

薔薇よ、如何なれば
休むひま無く香るや。
花は、微風(そよかぜ)に托して
之に答へぬ。
「我は自らを愛す、
されば思ふ、
妙香の中に生きんと。
たとひ香ることは
身一つに過ぎずとも、
世界は先づ
我よりぞ浄まる。」


  〔無題〕

薔薇の花打つ、あな憎し、
煤色の雨、砂の風。
薔薇は青みぬ、うつ伏しぬ、
砕けて白く散るもあり。

之を見るとき、花よりも
苛(さいな)まるるは我が心。
堪へ難ければ、傘とりて、
花の上にぞさしかざす。


  〔無題〕

淡黄(うすき)と、白と、肉色と、
三輪の薔薇、わが手より
和蘭(オランダ)焼の花瓶(はながめ)に
移さんとして躊躇(ため)らひぬ、
またと得難き宝玉の
身をば離るる心地して。

瓶に移せる薔薇の花、
さて今は是れ、一人(にん)の
私に見る花ならず、
我背子も愛で、友も愛で、
美くしきかな、安きかな、
見る人々の為に咲く。


  〔無題〕

衰へて、濡れたる紙の如く、
瓶の端に撓(たわ)める薄黄の薔薇、
されど、しばし我は棄てじ。
花は仄かに猶呼吸(いき)づきぬ、
あはれ、こは、臨終(いまは)の女詩人の如く、
香る、美くしき言葉も断続(きれぎれ)に……


  〔無題〕

わが運命の贈りもの、
恋と歌とに足る身には
薔薇を並べた日が続く、
真珠を並べた日が続く。

かよわき身には、有り余る、
幸(さち)も重荷となるものを、
思ひやりなき運命よ
情(なさけ)の過ぎた運命よ。

多くの幸(さち)が贖罪を
終(つひ)に求める日は来ぬか、
風が木(こ)の葉を剥ぐやうに
裸に帰る日は来ぬか。


  〔無題〕

このアカシヤの木(こ)のもとを
わが今日踏みて思ふこと
甘き怖えに似たるかな。
かかる木蔭にそのむかし、
逢はで止まれぬ初恋の
人を待ちたる思ひ出か、
はた、此処に来て、はるばると
見渡す池の秋の水
濃き紫の身に沁むか。


  〔無題〕

夜(よる)は美くし、安し、
人を脅かす太陽は隠れて、
星ある空は親しげに垂れ下り、
地は紫の気に満つ。

神秘と薄明の中(うち)に我等を据ゑて、
微風(そよかぜ)のもと、
夜は花の香(か)に濡れたる
その髪を振り乱す。

夜は美くし、安し、
今こそ小き我等も
一つの恋と一つの歌をもて
無限の世界に融け入るなれ。


  〔無題〕

大輪の向日葵(ひまはり)を斫らんとして、
ぢつと見れば、
太陽の娘なる花の明るさ、
軽き眩暈(めまひ)に身はたじろぐ。
斫りし大輪の向日葵を採れば
花粉はこぼれて身に満つ、
おお、金色(こんじき)の火の屑……
君よ、我は焼かれんとするなり。


  〔無題〕

我は俄に筆を擱(お)きぬ、
我が書き行く文字の上に、
スフインクスの意地悪るき片頬(かたほ)の
ちらと覗く、それを見つれば。


  〔無題〕

吝(やぶさ)かなれば言ひ遣りぬ、
永久の糧を送れと。

わが思ひつる如くにも
かの人は返事せず。

さて、ひと日過ぎ、二日(ふたひ)過ぎ、
何故(なにゆゑ)か、我は淋しき。

われは今みづから思ふ、
まことに恋に飢ゑつと。


  〔無題〕

灰となれば淋しや、
薔薇を焼きしも、
榾(ほだ)を焼きしも、
みな一色(ひといろ)に薄白し。
されば、我は
薔薇に執せず、
榾に著せず、
唯だ求む、火となることを。


  〔無題〕

悒欝の日がつづく、
わが思ひは暗し。
わが肩を圧(お)すは
重き錯誤の時。
身は醒めながら
悪夢の中に痩せて行く。


  〔無題〕

月の出前の暗(やみ)にさへ
マニラ煙草(たばこ)の香(か)を嗅げば、
牡丹の花が前に咲き、
孔雀の鳥が舞ひ下(くだ)る。
まして、輪を描(か)く水色の
それの煙を眺むれば、
黄金(きん)のうすぎぬ軽々と
舞うて空ゆく身が見える。


  我家

崖の上にも街、
崖の下にも街、
尺蠖虫(しやくとりむし)の如く
その間を這ふ細き小路(こうぢ)は
坑道よりも薄暗し。

我家(わがいへ)は小路に沿ひて、
更に一段低き窪にあり。
門を覗きて斜めに
人も、我も
横穴の悒欝を思ふ。

門と玄関との間、
両側に立つ痩せし樫の幹は
土中より出でし骨の如くに黒み、
その灰色する疎らなる枝は
鉛の静脈を空に張れり。

我家は佝僂病者(くるびやうしや)なり、
その内部は暗く屈みて
常に太陽を見ず、
陰湿の空気壁に沁みて
菊の香(か)の如く苦(にが)し。

さもあらばあれ、我は愛す、
我家の傷ましく淋しきを。
精舎と行者との如く、
同じ忍辱の中に
人と家とは黙し合ふ。

さて、我家にも、
二階の障子に
朝の日の射す片時あり、
見給へこの稀なる
我家の桃色の笑顔を。


  永き別れ

発車前三分……
我は更に戦きて
汽車の窓に歩み寄る。
発車前三分……
中なる人も
湿(うる)みたる目に見下ろし、
痙攣(ひきつ)る如く手を伸べぬ。

いかで、我等に残るこの束の間、
猶吸はばや、君が心を、
君が※[#「執/れっか」、10巻-377-下-7]を、君が香(か)を。
発車前三分
はた、わが命のため、
捉へて我目に留めばや、
君が顔を、君が姿を。

狂ほしくなれる我は
君が手の上に
はげしき接吻(くちづけ)を押して、
思はず、きと噛みぬ。
おゝ、今、基督(クリスト)の其れの如く、
わが脈管を伝ひて拡がるは
君が聖なる血の一滴……

汽笛は空気を裂く。
時なり、汽車は動き、
二度と来らぬ旅人の
君は遠く去り行く……
さはれ匂はしき記憶よ、
証(あか)せかし、常に猶、
我が衷(うち)に君の在るを。


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 大正八年


  朝晴雪

ひと夜(よ)明くれば時は春、
おお、めでたくも晴れやかに
天は紺青、地の上は
淡紫と薔薇色を
明るく混ぜた銀の雪、
強き弱きの差別なく
世の争ひを和らげて
まんまろと積む春の雪、
平等の雪、愛の雪。
此処へ東の地平から
黄金(こがね)の色に波打つは、
身を躍らして駈け上(のぼ)る
若い初日の額髪。


  朝晴雪

おお、此処に、
躍りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ……
時は朝、
地は雪の原。

急ぐ女の一むれ、
青白き雪の上を
真一文字に北へ向き、
風に逆ふ髪は
後ろに靡きて
大馬の鬣(たてがみ)の如く、
折からの日光を受けて
金色(こんじき)に染まりぬ。

高く前に張れる両手は
確かに掴まんとする
理想の憧れに慄へて
槍の穂の如くに輝き、
優しの素足に
さくさくと雪を蹴りつつ、
甲斐甲斐しくも穿きたるは
希臘(ギリシヤ)風の草鞋(サンダル)……

さて桔梗色や
淡紅(とき)色の
明るき衣(ころも)
霧よりも軽(かろ)く
膝を越えて
つつましやかに靡けば、
女達の身は半
浮ぶとぞ見ゆる。

この美くしき行列は
断えず歌へり。
その節は
かすかに軽(かろ)き
快き眩暈(めまひ)の中に
人と万物を誘ひ、
人には平和を、
木草には花を感ぜしむ。

女達は歌ひつつ行く。
「全世界を恋人とし、
いとし子として、
この温かき胸に抱(いだ)かん。
我等は愛の故郷(ふるさと)――
かの太陽より来りぬ」と。

おお、此処に、
踊りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ……
女達の踏む所に
紅水晶の色の香水
光の如くに降り注ぎ、
雪の上に一すぢ
春の路は虹の如く
ほのぼのとして現れぬ。


  手の上の氷

日の堪へ難く暑きまゝ
しばらく筆をさし置きて、
我れは氷のかたまりを
載せて遊びぬ、手のひらに。

貧しき家の我子等は
未だ見ざりしその母の
この戯れを怪しみて、
我が前にしも集まりぬ。

可愛ゆき子等よ、こは母が
珍しきまゝする事ぞ、
唯だ気紛れにする事ぞ、
いはれも無くてする事ぞ。

かゝる果敢なきすさびすら
母が昔の家にては
許されずして育ちにき、
唯だ頑なに護られて。

可愛ゆき子等よ、摸(ま)ねたくば
いざ氷をば手に載せよ。
さて年長けて後(のち)思へ、
母は自由を愛でにきと。


  我は矛盾の女なり

我れは矛盾の女なり、
また恐らくは、魂に
病を持てる女なり。
我れを知らんとする人は
先づ此事を知り給へ。

祖国を二なく愛でながら、
世界の人と生きんとし、
濫婚国に住みながら、
一つの恋を尊びぬ。
我れは矛盾の女なり。

また恐らくは、魂に
病を持てる女なり。
貧しき事を詫びながら、
貴人に似たる歌を詠み、
人の笑む日に泣くなれば。


  母の文

虫干の日に見出でしは
早く世に亡き母の文、
中風(ちゆうぶ)の手もて書きたれば
乱れて半ば読み難し。

わが三度目の産月(うみづき)を
案じ給へる情(なさけ)もて
すべて満たせる文ぞとは
薄墨ながらいと著(しる)し。

このおん文の着きし日に
我れは産をば終りしが、
二日の後に、俄にも
母は世に亡くなり給ひ、

産屋籠りの我がために
悲しき事は秘められて、
母なき身ぞと知りつるは
一月(ひとつき)経たる後なりき。

我れに賜へるこの文が
最後の筆とならんとは、
母みづからも知りまさぬ
天の命運(さだめ)の悲しさよ。

あゝ、いましつる其世には、
母を恨みし日もありき。
いまさずなりて我れは知る、
母の真実(まこと)の御心を。

否、母うへは永久(とこしへ)に
世に生きてこそ在(いま)すなれ、
遺したまへる幾人の
子の胸にこそ在すなれ。

いざ見そなはせ、此に我が
思ふも母の心なり、
述ぶるも母の言葉なり、
歌ふも母の御声(みこゑ)なり。


  嵐の後の庭の木戸

嵐の後の庭の木戸、
その掛金を失ひて、
風のまにまに打揺れぬ。
今朝我が来れば、外つ国の
女の如き身振にて、
軽き会釈を為す如し。
萎れたれども、花壇より
薔薇は仄かに香を挙げて
人を辿へぬ[#「辿へぬ」はママ]、いざ入らん、
嵐の後の庭の木戸。


  わが墓

幸(さち)うすき身は、生きながら、
早く一つの墓を持つ。
知るは我れのみ、わが歌を
やがて淋しき墓ぞとは。

げにわが歌は墓なれば、
刹那の我れを納れしまゝ、
冷たく暗き過去となり、
未来は永く塞がりぬ。

愛も、望みも、微笑みも、
憂きも、涙も、かなしみも
此処にありしと誰れ知らん、
灰のみ白き墓なれば。

大忘却の奥ふかく
合されて行く安楽の
二なきを知れる我れながら、
時には之をかなしみぬ。


  花子の目

あれ、あれ、花子の目があいた
真正面をばじつと見た。
泉に咲いた花のよな
まあるい、まるい、花子の目。

見さした夢が恋しいか、
今の世界が嬉しいか。
躍るこころを現はした
まあるい、まるい、花子の目。

桃や桜のさく前で、
真赤な風の吹く中で、
小鳥の歌を聞きながら、
まあるい、まるい、花子の目。


  噴水と花子

お池のなかの噴水も
嬉しい、嬉しい事がある。
言ひたい、言ひたい事がある。

お池のなかの噴水は
少女(をとめ)のやうに慎ましく
口をすぼめて、一心に
空を目がけて歌つてる。

小さい花子の心にも
嬉しい、嬉しい事がある。
言ひたい、言ひたい事がある。

小さい花子と噴水と
今日は並んで歌つてる。
ともに優しい、美くしい
長い唱歌を歌つてる。


  向日葵と花子

ほんに不思議や、きらきらと
光る円顔、黄金(きん)の髪、
童すがたのお日様が、
風に吹かれてゆらゆらと
黄金(きん)の車に乗りながら、
青い空から降りて来て、
花子の居間をさし覗く。

小(ち)さい花子はお日様を
近く眺める嬉しさに、
眩しいことも打忘れ、
思はず窓に駆け寄れば、
またも不思議や、お日様は
直ぐに一輪、向日葵(ひまはり)の
花に変つて立つて居る。


  秋が来た

涼しい涼しい秋が来た
花子の好きな秋が来た。
空は固より、日の色も
水も空気も吹く風も
すつきりしやんと澄み徹る。

まして静かな夜(よ)となれば
小(ちさ)い花子が面白い
お伽噺を読む側で
月はきんきん黄金(きん)の色
虫はりんりん鈴の声。

小(ちさ)い花子の思ふやう
竹の中から美くしい
赫夜姫(かぐやひめ)をば見附けたも
かうした秋の日であらう。
涼しい涼しい秋が来た。


  光る栗の実

裏の林の秋の昼
静かな中に音がした。
何の音かと小走りに
小(ちさ)い花子が来て見たら
まんまるとした栗の実が
高い枝から落ちて居る。

毬(いが)を離れた栗の実は
今あたらしく世に生れ
空を見るのが嬉しいか
一つ一つに莞爾(にこにこ)と
好(よ)い笑顔をば光らせる。
そして花子も好い笑顔。


  鴎

初秋(はつあき)の夷隅川、
空の緑を映した中に、
どの小波(さざなみ)も
新婦(にひよめ)の顔をして
桃色に染まつて居る。

初秋の夷隅川、
そして、折折に来るのは、
白い光の鳥、
自由と幻想(ヴイジヨン)の鳥、
おお、私の心の中の一羽の鴎。


  雲

何処から来たのか、
海の上の
桔梗色の空の上に、
まん円く白い雲の一団。

今、その雲の尖端(さき)を
気紛れな太陽が少し染めると、
雲は命を得て、
見る見る生きて動く。

もう雲では無い。
黄金(きん)の角(つの)を左右に振つて、
項を垂れながら、
後足で空に跳ねる白い大牛。


  砂の上

私達は浜へ出た。
何処までも続く砂は
一ぱいに夕焼を受けて、
黄金(きん)と紫に濡れて居る。

海は猶更、
大きな野を焼くやうに、
炎炎と燃え広がり、
壮厳な猛火の楽が聞える。

そして、私達の
夕焼を受けた顔を見ると、
どの顔も莞爾(にこにこ)と希望に光り、
嬰粟(けし)の花のやうに酔つて居る。

けれども、地に曳く
青ざめた影を振返ると、
みんなが、淋しい、淋しい
永遠の旅人を自覚する。


  若い渡守

長者町の浜と
砂丘(しやきう)との間を漕ぐ
一人の青年の渡守、
その名は田中文治さん。

文治さん、
あなたは寡言(むくち)です、
あなたは人の十言(とこと)に対して
やつと一言を答へます、
重い、重い、鉄のやうな一言を。

文治さん、
あなたは人が礼を述べても
大して嬉し相な表情を見せません、
勿論、世辞や愛想(あいそ)は。

文治さん、
あなたは兵役から帰つて来た人です
それで居て、少しも都会じみず、
日焼の黒い顔と、
百姓の子の生地とを保つて居る。

文治さん、
あなたは避暑客のために、
この夏中、此町の青年と一緒に、
渡守の役目を引受けて居る。

文治さん、
あなたは三日置の自分の番の外に、
仲間の者の課役をも助けて、
殆ど毎日、逞ましい裸体(はだか)で、
炎天の下(もと)に櫓を採つて居る。

文治さん、
あなたは寡言(むくち)です。
けれど、その銅像のやうな全身は
未来の偉大な人道を語ります。


  朝露

今朝田舎には、
しつとりと
白い大粒の露が置いて居る。

私達が素足に
竹の皮の草履を穿いて、
小走りに海の方へ下りて行くのは、
両側に藤豆と玉蜀黍(たうもろこし)とが
人の丈よりも高く立つ細道。

おお、何と云ふ親しさだ。
小さな紅玉を綴つた花や、
翡翠の色の長い葉が
額にも、手にも、袂にも触れる。
さうして、その度に露がこぼれる。

今朝、田舎には
どの草木にも
愛の表情と涙とが溢れて居る。