晶子詩篇全集拾遺

與謝野晶子

晶子詩篇全集拾遺書籍情報

底本:「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社
   1980(昭和55)年8月10日第1刷発行
   「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社
   1980(昭和55)年12月10日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※標題のない作品については、[無題]と記載しまた。
※各詩編の行の折り返しは、底本では1字下げになっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出、収録された単行本等に関する情報は、ファイルに含めませんでした。
入力:武田秀男
校正:kazuishi

晶子詩篇全集拾遺 3

與謝野晶子

  秋の匂ひ

秋の優しさ、しめやかさ。
どの木、どの草、どの葉にも、
冴えた萠葱(もえぎ)と、金色(こんじき)と、
深い紅(べに)とが入りまじり、
そして、内気なそよ風も、
水晶質のしら露の
嬉し涙を吹き送る。

秋の優しさ、しめやかさ。
空行く雁は瑠璃(るり)色の
高い大気を海として、
櫓を漕ぐやうな声を立て、
何処(どこ)の窓にも睦じい
円居の人の夜話に
黄菊の色の灯が点(とも)る。


  晩秋の感傷

秋は暮れ行く。
甘き涙と見し露も
物を刺す霜と変り、
花も、葉も、茎も
萎れて泣かぬは無し。

秋は暮れ行く。
栗は裸にて投げ出(いだ)され、
枯れがれの細き蔓よりも
離散する黒き実あり、
黍幹(きびがら)も悲みて血を流しぬ。

秋は暮れ行く。
今は人の心の水晶宮も
粛として澄み透り、
病みたる愛の女王の傍ら
睿智の獅子は目を開く。


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 大正九年


  太陽の船出

お日様、お日様、
若いお日様、
今日はあなたの鹿島立(かしまだち)。

正月元日、瑠璃色の
海になびいた霞幕、
その紫をすと分けて、
金(きん)のお船に、玉の櫂、
東の空に帆を揚げる
めでたや、めでたや、
おめでたや。

お日様、お日様、
若いお日様、
今日はあなたの鹿島立。

金のお船に積み余る
熱と光は世を温(ぬく)め、
真紅の帆から洩る風は
長閑(のどか)な春を地に満たし、
そして行手は花盛り
めでたや、めでたや、
おめでたや。


  衆議院の解散

衆議院解散の
号外を手にした刹那、
わたしは座を立つて
思はず叫んだ。
「原敬の白髪頭が
何と云ふ善い智慧を出したのだ
自暴自棄と云ふ事ほど
最上の自滅法はありません。
民衆の敵、
社会の敵、
自由の敵、
政友会よ、
もうお前は亡霊だ。」


  健之介の畑

小(ち)さい健之介は
汗をば流し、
今日もせつせと
畑(はた)打つ、一人。

裏の畑は
やくざな畑、
何処を打つても
石ころだらけ。

石と鍬とが
かつちり、こつちり、
鍬は泣きだす、
石は火出だす。

花を植ゑるか、
菜の種蒔くか、
なぜに打つかと
健之介に問へば、

「蒔くか、植ゑるか、
それはまだ決めぬ。
僕は力が
出したいばかり。」


  山房の雨

    六甲苦楽園の雲華庵に宿りて
津の国の武庫の山辺の
高原(たかはら)の小松の上を、
細々と、つつましやかに、
歩みくる村雨のおと。

高原の庵(いほ)に目ざめて、
猶しばし枕しながら、
そを聴けば静かに楽し、
初夏(はつなつ)のあかつきの雨。

おそらくは、青き衣(ころも)に、
水晶の靴を穿きつつ、
打むれて山に遊べる
谷の精、それか、あらぬか。

戸を開けて打見下ろせば、
しら雲の裳(もすそ)を曳きながら、
をちかたに遠ざかりゆく
あかつきの山の村雨。


  〔無題〕

栓をひねると
水道の水が跳ねて出る。
何処の流しへでも、
誰れの手へでも、
それは便利な機械的文化です。
併し、わたしは倦きました、
わたしは掘りたい、
自分の力で、
深い、深い、人間性の井戸が一つ。


  〔無題〕

すき通る緑、
泣いた女の瞼のやうな薄桃色。
一本の、
ひよろ、ひよろとしたねぢり草が
わたしの心に一ぱいになつて光つて居る。
どんなに、わたしの心が、今朝、
美くしい空虚(からつぽ)であつたのか、
そして、わたしは満足して居る。
一本の
ひよろ、ひよろとしたねぢり草が
わたしの心へ入つて来たことに、
すき通る緑、
泣いた女の瞼のやうな薄桃色。


  〔無題〕

大粒で無い秋の雨が
思ひ出したやうに、折折、
ぽつり、ぽつりと
わたしの髪を打つ。
黄ばんだ萱の葉を打つやうに、
咲き残つた竜胆(りんだう)の花を打つやうに。
わたしは今、
東京の大通りを急ぎながら、
心は
浅間の山の裾野を歩いて居る。


  〔無題〕

わたしの一人の友が
逢ふたびに話す、
大正六年の颱風に
千葉街道の電柱が
一斉に、行儀よく、
濡れながら、
同じ方向へ倒れて居たことを、
わたしは、その快い話から、
颱風を憎まない。
それが破壊で無くて
新しい展開であるのを思ふと、
颱風を愛したくさへなる。
おお、一切の煩瑣な制約を掃蕩する
天来の清潔法である颱風。


  〔無題〕

青い淵、
エメラルドを湛へて
底の知れない淵、
怖ろしい淵、死の淵。
所へ、「みづすまし」が
一匹ふいと現れて、
細長い
四本の脚で身を支へ、
円く、円く、軽軽と、
踊つたり、舞つたり。

淵は今「みづすまし」の
美くしい命の
「渦巻つなぎ」に満ち、
この芸術家的な虫の
支配のもとに、
見るは唯だメロデイの淵、
恍惚の淵、青い淵。


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 大正十年


  紙で切つた象

母さん、母さん、
端書(はがき)を下さい、
鋏刀(はさみ)を下さい、
お糊を下さい。

アウギユストは今日、
古い端書で
象を切ります。
きり、きり、きり、きり。

そおれ、長い長いお鼻、
そおれ、脊中、
まんまるい脊中。
きり、きり、きり、きり。

それから、小さな尻尾(しつぽ)、
後脚とお腹、
さうして前脚。
きり、きり、きり、きり。

少し後脚が短い、
印度(インド)から歩いて来たので、
くたびれて、
跛足(びつこ)を引いて居るのでせう。

象よ、板の上に、
足の裏を曲げて、
糊をば附けて、
さあ、かうしてお立ち。

可愛い象よ、
お腹が空いたら、
藁を遣ろ、
パンを遣ろ。

母さん、母さん、
象の脊中には何を載せるの。
人間ですか、
荷物ですか。

象の脊中に載せるのは
書物ですつて。
それは素敵だ、
僕がみんな読んで遣らう。

それから、象よ、
僕が書物を読んで仕舞つたら、
僕をお載せ、
さうして一散に駆け出して頂戴。

アウギユストは象に乗つて
何処へ行かう。
兄さんの大学へ行かう、
兄さんをおどかしに。

いや、いけない、いけない、
兄さんはお医者になるのだから、
象に注射をして、
象を解剖するかも知れない。

母さん、何処へ行きませう、
宣しい、
母さんの云ふやうに、
広い広い沙漠へ行きませう。

象は沙漠が好きですとさ、
淋しい沙漠がね。
其処を通れば
太陽の国へ帰られる。
(註「アウギユスト」は作者の幼い四男の名です。)


  元日の歌

元日のこころは若し、
清々し、美くし、優し。
人すべて一つになりて、
微笑みて諸手(もろで)を繋ぐ。

商人(あきびと)も我等を責めず、
貧しきも富を憎まず、
盗人も盗みを忘れ、
囚人(つみびと)も今日は休らふ。

溢るるは感謝のおもひ、
太陽も讃めて拝まん。
みしめ縄、門(かど)の松竹(まつたけ)、
見る物に春の色あり。

霞みたる都のかたに
午砲(どん)のおと微かに響き、
打仰ぐ青き空には
紙鳶(いかのぼり)近く歌へる。


  花を摘む

だれも、だれも、
春の日に
花を摘む。
むらさきの花、
紅い花。
庭で摘む、
野で摘む、
山で摘む。
むらさきの花
紅い花。

わたしも花を
摘むけれど、
淋しいわたしの
摘む花は、
うなだれた花、
泣いた花。
野にも、山にも
見つからぬ
欝金の花や
青い花。

春が来たとて
外へ出ず、
自分の書いた
絵の中と、
自分の作る
歌の中、
其処で摘む、
独りで摘む。
欝金の花や
青い花。


  啄木鳥

咲いた盛りの
桜のなかで、
啄木鳥(きつつき)こつ、こつ。

啄木鳥よ、
おまへは自然の
電信技師、
何処へ打つのか、
桜のなかで、
春のしらせを
こつ、こつと。


  願ひ

虹のやうな衣物(きもの)、
光る衣物、
着いたいな。

鳩のやうな白靴、
細靴(ほおそぐつ)、
穿きたいな。

天馬のやうな大馬、
青い馬、
乗りたいな。

みんなで着いたいな、
みんなで穿きたいな、
みんなで乗りたいな。

そして、みんなで行きたいな、
森(もおり)の奥の花園へ
みんなで踊りに行きたいな。


  お猿

お猿が出て来た、
負はれて出て来た。
お目をぱちくり、
赤ん坊(ぼ)のお猿。

お猿、手に持つ、
小(ちさ)い紅(べに)の扇。
負はれた背(せな)から
ちよこなんと降りた。

降りたお猿は
足もとふらふら、
狭い座敷を
斜めに歩るき、

舞ふかと思(おも)たら、
嬢さんの前で、
あれ、まあ、赤ン目(べ)をする、――
いやなお猿。



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 大正十一年


  旭光照波

元日の夜明の
伊豆の海のほとり、
大(おほい)なる浴室の此処彼処、
うす闇の中に
人々の白き人魚の肌。

がらす戸の外には
たわやかなる紺青の海。
大空の色は翡翠の如く、
その空と海の合へる涯には
今起る、
黄金(きん)と焔の雲の序曲。

あはれ、神々しき
初日の登場、
燦爛たる火の鳥の舞。
大海(おほうみ)は酔ひて、
波ことごとく
恋する人の頬(ほ)となりぬ。


  家

崖に沿ひたる我が家は、
その崖下を大貨車の
過ぎゆく度に打震ふ。
四とせ五とせ住みながら、
慣れぬ心の悲しさに、
また地震かと驚きぬ。
船をば家とする人も
かかる恐怖(おびえ)を知らざらん、
我れは家をば船とする。


  〔無題〕

からりと晴れた
夏の日に、
季節ちがひの
くわりんの果(み)の香りが
一すぢ、
わたしの心のなかに、
その果肉の甘さを以て
ただよつてゐる。

わたしの心は
踊り疲れた女のやうに
半眠つてゐる。
さうして、半嗅いでゐる、
そのくわりんの果の香りを。

こんな時が
十分ほど続いて、
ふと現実に還つたあとで、
また、姑(しば)らく、
わたしの重い頭が
猶そのくわりんの果の香りを
目の前にあるやうに探してゐる。

耳もとには
貪欲な蚊が一つ二つ唸つてゐる。
平凡な
暑くるしい夕ぐれ。
書きかけた原稿が
机にわたしを待つてゐる。
くわりんの果の香りは
わたしの感情と一緒に
もうまた帰りさうにない。


  〔無題〕

地平線は
高く高く上(あが)つて、
はての無い燥(かわ)いた砂原を、
星の多い、
明るい月夜の空に
結びつけてゐる。

砂原のなかには、
一ところ、
廃墟のやうな、
一段盛りあがつた丘の上に、
方形な白い石の家が立ち、
遥かな前方には、
一すぢの廻りくねつた川が
茂つた木立ちの中を縫つてゐる。

夜見る木立は
草のやうに低く黒く集団(かたま)り、
中には、ほのかに、
二本、三本、
針金のやうな細い幹が
傾いて立つてゐる。

月の光の当たつてゐる部分は、
川も、木立も、
銀の鍍金(めつき)をして輝き、
陰影はすべて
鉄のやうに重い。

世界は静かだ。
青繻子の感触を持つ空には、
星が宝石と金銀の飾りを
派手にぎらつかせ、
硝子(がらす)製のやうな
淡い一輪の月を
病人の顔でも覗き込むやうに
とり囲んでゐる。

川の水が
遥かな割に、
ちよろ、ちよろと
淋しい音を立てゝ流れる。

わたしは今、目を閉ぢると、
こんな景色が見える。
さうして、
その石の家の窓には
わたしが一人
じつと坐つてゐるやうである。
また、その遥かな水音も
私自身が泣いてゐるやうである。

また、その白い月が
わたしであつて、
高いところから、
傷ついた心で、
その空虚(うつろ)な石の家を
見下ろしてゐるやうでもある。


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 大正十二年


  電車の中

生暖かい三月半の或夜(あるよ)、
東京駅の一つの乗場(プラツトホーム)は
人の群で黒くなつてゐる。
停電であるらしい、
久しく電車が来ない。
乗客は刻一刻に殖えるばかり、
皆、家庭へ下宿へと
急ぐ人々だ。
誰れも自制してはゐるが、
心のなかでは呟いてゐる、
或はいらいらとしてゐる、
唸り出したい気分になつてゐる者もある。
じつとしては居られないで、
線路を覗く人、
有楽町の方を眺める人、
頻りに煙草(たばこ)を強く吹かす人、
人込みを縫つて右往左往する人もある。
誰れの心もじれつたさに
何(なん)となく一寸険悪になる。
其中に女の私もゐる。

凡(おほよ)そ廿分の後(のち)に、
やつと一台の電車が来た。
人々は押合ひながら
乗ることが出来た。
ああ救はれた、
電車は動き出した。

けれど、私の車の中には
鳥打帽をかぶつた、
汚れたビロオド服の大の男が
五人分の席を占めて、
ふんぞり反つて寝てゐる。
この満員の中で
その労働者は傍若無人の態(てい)である。
酔つてゐるのか、
恐らくさうでは無からう。
乗客は其男の前に密集しながら、
誰も喚び起さうとする者はない。
男達は皆其男と大差のない
プロレタリアでありながら、
仕へてゐる主人の真似をして
ブルジヨア風の服装(みなり)をしてゐるために、
其男に気兼し、
其男を怒らせることを恐れてゐる。
電車は走つて行く。
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。
乗客は窮屈な中に
忍耐の修行をして立ち、
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。
その中に女の私もゐる。

一人で五人分の席を押領する……
人人がこんなに込合つて
息も出来ないほど困つてゐる中で……
あゝ一体、人間相互の生活は
かう云ふ風でよいものか知ら……
私は眉を顰めながら、
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ
我々プロレタリアの階級に
よい指導者の要ることを思つてみた。

併しまた、私は思つた、
なんだ、一人の、酔つぱらつた、
疲れた、行儀のない、
心の荒んだ、
汚れたビロオド服の労働者が
五人分の席に寝そべることなんかは。
昔も、今も、
少数の、狡猾な、遊惰な、
暴力と財力とを持つ人面獣が、
おのおの万人分の席を占めて、
どれ位われわれを飢させ、
病ませ、苦めてゐるか知れない。
電車の中の五人分の席は
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ。

かう思つて更に見ると、
大勢の乗客は皆、
自分達と同じ弱者の仲間の
一人の兄弟の不作法を、
反抗的な不作法を、
その傍に立塞がつて
庇護(かば)つてゐるやうに見える。
その中に女の私もゐる。


  母と児

書き捨てた反古を捻つて、
幾つも幾つも作る、
紙(こ)よりの犬。
「母あさんは今日、
玩具(おもちや)を買ひに出る暇が無いの、
是で我慢をなさいな。」

ひよろ、ひよろとした小犬が
幾つも机の上に並ぶのを見て、
四歳の児の目は円くなる。
「母あさん、此犬を啼かして頂戴、
啼かなけりや、母あさんは
犬を作るのが下手ですよ。」


  郊外

路は花園に入り、
カンナの黄な花が
両側に立つてゐる。
藁屋根の、矮い、
煤けた一軒の百姓家が
私を迎へる。
その入口の前に
石で囲んだ古井戸。
一人の若い男が鍬を洗つてゐる。
私のパラソルを見て、
五六羽の鶏が
向日葵の蔭へ馳けて[#「馳けて」はママ]行く。
黄楊の木の生垣の向うで
田へ落ちる水が、
ちよろ、ちよろと鳴つてゐる。
唯だ、あれが見えねば好からう、
青いペンキ塗の
活動写真撮影場。


  〔無題〕

六月の太陽のもとで、
高架線から見る東京。
帆のやうに、幕のやうに、
舞台装置の背景布のやうに、
幾ところからもせり出した
染物屋の物干の
高い大きな布のかたまり。
なんとそれが
堂々と揺れて光ることだ。
日本銀行と三越(みつこし)の
全身不随症の建物が
その蔭で尻餅をついてゐる。


  〔無題〕

おどろけるは我なるに、
よろよろとする自転車、
その自転車乗り
わが前に
おまへは護謨(ごむ)製の操人形(あやつり)か。


  〔無題〕

竹を割りて
まろく幹をつつみ、
黒き細縄もて縛れり。
簡素ながら、
いと好くしたる
職人の街路樹の愛。


  〔無題〕

一人の爺(おやぢ)チヤルメラを吹き、
路ばたにがつしりと据ゑぬ、
大臣、市長、頭取の
椅子よりも重く。
よいかな、爺、
我等の児になくて叶はぬ
飴屋の荷の台。


  〔無題〕

銀座通りの夜店の
人込のなかの敷石に、
盛上がりてねむる赤犬、
大胆のばけもの、
無神経のかたまり。
たれもよけて過ぎ行く。


  〔無題〕

白き綿の玉の如き
二羽のひよこが
ぴよぴよと鳴き、
その小さきくちばしを
母鶏の口につく。
母鶏はしどけなく
ななめにゐざりふし、
片足を出だして
ひよこにあまえぬ。
六月の雨上りの砂
陽炎(かげろふ)の立ちつゝ。


  〔無題〕

心にはなほ
肩あげあり、
前髪、額(ぬか)を掩へど、
人は見ぬにや、
知らぬにや、
心にはなほ
ゆめをおへども……


  〔無題〕

五歳(いつつ)になつた末の娘、
もう乳を欲しがらず、
抱かれようとも言はぬ。
辻褄の合はぬお伽噺を
根ほり葉ほり問ふ。
ママの膝なんかに用は無い、
ちやんと一人の席を持つてゐる。


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 大正十三年


  賀頌

慶(よろこび)ありて、
東の空、
見よ、この日の、
かがやく、
いみじき光を。

めでたきかなや、
日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)、
世の星なる、
麗はし、
良き姫めとらす。

雄雄しくいます、
日嗣の皇子、
げに、人皆、
とこしへ、
たのまん御柱(みはしら)、

ならびて在(いま)す、
天つ少女(をとめ)、
そのみなさけ、
優しく、
みけしき気高し。

長五百秋(ながいほあき)に、
咲きつぐ花、
此の白菊、
いざ、いざ、
挿(かざ)して祝はん。


  祝意一章

すべて世のこと人のわざ、
善きが続くは難かるに、
これの冊子(さうし)のめでたさよ
百に重ぬる、更に一。

百てふ数は豊かなり、
倉に満ちたる穀のごと、
これの冊子の来し方の、
足らへることの証なり。

一は万(よろづ)の始めとて、
春立つ朝の空のごと、
これの冊子の更にまた、
新たに開く世界なり。

ああ見よ、此処に、まばゆくも、
聡く、気高く、うるはしき、
久遠の女、人のため、
行くべき方(かた)を指さしぬ。


  母の歌

ふたおやの愛の心は
等しくて差別なけれど、
その愛の姿のうへに
おのづから母ぞ異る。

女にて母とならずば
如何ばかり淋しからまし。
女なる身の幸ひは
母となり初めて知りぬ。

生むことは聖なるわざぞ、
母ひとり之をなすのみ。
神の子と云はるる人も
母の血を浴びて生れき。

男らは軍(いくさ)に出でて
人斬りし道なき世にも、
をさな児に乳房を与へ、
かき抱(いだ)き歌ひしは母。

母なくば人は絶えけん、
母ありて、人の生命(いのち)は
つぎつぎに新たになりぬ、
美くしくやさしくなりぬ。

今の世も男ごころは
おしなべて荒く硬かり。
正しきに導くものは
母ならで誰か能(よ)くせん。

願はくは母の名に由り、
地の上の人を浄めん、
富む者の欲を制せん、
戦ひを全(また)くとどめん。


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 大正十五年


  〔無題〕

或日、わがこころは
うす墨色の桜、
また別の日、わが心は
紅き一ひらの罌粟(けし)の花、
時は短し、欲多し。


  〔無題〕

あなた、石が泣いて居ます、
石が泣くのを御覧なさいまし。
あの朴の木の下の二つ目の石、
光を半分斜(はす)に受けて
上を向いて、
渋面をして泣いて居ます。
こんな山の中で、静かな中で、
だまつて泣いて居ます。


  〔無題〕

黄味がかつた白い睡蓮、
この花を見ると、
直ぐ私の目に浮ぶのは
倫敦(ロンドン)のキウ・ガーデンの池、
仏蘭西(フランス)風と全くちがつた
自然らしい公園の奥の池、
あなたと私とは立止まり、
さて其処に見た、
羅衣(うすもの)に肌身の光る
静かなる浴女の一群(ひとむれ)。


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 昭和二年


  正月に牡丹咲く

今年ここに第一の春、
元日の卓の上に、
まろまろと白き牡丹
力満ちて開かんとす。

金属も火も知らぬ、
かよわき中の強さ、
よき人の稀に持つ
素顔の気高さ。

この喜びにいざ取らん
わが好む細き細き穂長の筆。
牡丹とわが心と今
共にほと気息(いき)をつく。


  〔無題〕

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
涙未(いま)だ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下(もと)に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語。
   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。
世は変る、変る、
偏すること無く変る、
愛と正義の中に変る。
   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外(うちと)に。
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処(いづこ)ぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ。
世界は如何に動くべき、
国民(くにたみ)は何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子(せきし)、
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心(みこゝろ)に集まる。
陛下は地上の太陽、
唯だ光もて被(おほ)ひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界を容(い)るるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生(せいせい)として常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします。
   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労(いそし)む者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
怠(たゆ)みつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
逸(そ)れつるは本に復(かへ)れ。
他(ひと)の国には他(ひと)の振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来(きた)る、
夜(よ)は明けんとす、東(ひんがし)に。
   ×
我等が行くべき方(かた)は
陛下今指さし給ふ。
止(や)めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。


[#改ページ]



 昭和三年


  〔無題〕

障害物を越ゆる
騎馬の人の写真より、
我目は青磁の皿なる
レモンの黄に移り行き、
ふと、次の間(ま)の
鳩の時計の呼ぶに、
やがて心は
碓氷の峰の頂(いただき)
冬枯の落葉松(からまつ)に眺め入り、
浅間より浮び来る
白き雲に乗りつつ、
高く高く遊ぶ。


  〔無題〕

飛べ、けはしきを、風の空、
吹け、はげしきを、火の喇叭(らつぱ)、
摘め、かをれるを、赤い薔薇、
漕げ、逆巻(さかま)くを、千波万波、
君が愛、音楽、詩の力。


[#改ページ]



 昭和四年


  小鳥の巣

見上げたる高き木間(このま)に
胸ひかる小鳥のつがひ、
もろともに啣(くは)へて帰る
一すぢの細き藁屑、

まめやかに、いぢらしきかな、
日のあたる南に向きて、
こもりたる青葉の蔭に、
巣を作る頬白(ほほじろ)のわざ。

春の日は若き雌(め)と雄(を)と
花の木に枝うつりして、
霜と雨、風をも凌ぎ、
歌ひけん、岡より岡へ。

初夏の小鳥のこころ
今は唯だ生むを楽み、
雛のため、高き木間に
巣を作る頬白のわざ。


  旅中

小蒸汽の艫(とも)、
ここに立ちて
後ろを見れば、
過ぎ去る、
過ぎ去る、
逃げるやうに過ぎ去る
わたしの小蒸汽。

後ろに長く引くのは、
板硝子のやうな航跡、
その両側に
船底から食(は)み出した浪が
糊を附けて硬(こは)ばつた
藍色の布の
襞と皺とを盛り上げる。

ぱつと白く、
そのなかに、遠ざかる
港の桟橋を隠して、
レエスの網を跳ね上げる飛沫(しぶき)。
また突然に沢山のS(エス)の字が
言葉のやうに呟いて
やがて消えゆく泡。

陸から、人から、
貧乏から、筆から、
わたしの平生から、
ああ、かうして離れるのは好い。
過ぎ去る、
過ぎ去る、
わたしの小蒸汽。


  瞼

まぶたよ、
何と云ふ自在な鎧窓だ。
おかげで、わたしは
じつと内を観る。
唯だ気の毒なのは、折々
涙の雨で濡れることである。


[#改ページ]



 昭和五年


  少女子(をとめご)の花
    (卒業生を送る歌)

教へ子のわが少女(をとめ)たち、
この花をいざ受けたまへ。
君たちのめでたき門出、
よき此日、うれしき此日、

そのはじめ皆をさなくて
ほの紅き蕾と見しも、
いつしかとわが少女たち
この花にいとこそ似たれ。

似たまふは姿のみかは、
うるはしく匂へる色は
やがて其の豊かに開く
新しきみこころの花。

教へ子のわが少女たち、
この花をいざ受けたまへ。
この花にその自(みづか)らの
幸ひを眺めたまへよ。

いとよくも修めたまひき。
つつましく優しきなさけ。
明るくも敏きその智慧
創造の妙(たへ)なる力。

君たちの行手の道は
ほがらかに春の日照らん。
荒き風よしや吹くとも、
少女子の花はとこしへ。

かく云へど、永き年月(としつき)
相馴れし親のこころに、
別れをば惜む涙の
つと流る、如何にとどめん。

いざさらば我が少女たち、
この花のごとくにいませ
若やかに光りていませ
この花をいざ受けたまへ。


  鵞鳥の坊や

ねんねんよ、ねんねんよ、
雨が降るからねんねんよ、
鳥舎(とりや)の鵞鳥もねんねした。

ねんねんよ、ねんねんよ、
鵞鳥の坊やのおめざには、
ちいしやの葉(は)つ葉(ぱ)を摘んでやろ。

ねんねんよ、ねんねんよ、
内(ううち)の坊やのおめざには、
ああかいお日様上げませう。

ねんねんよ、ねんねんよ、
梅雨(つうゆ)のおあめも寝ておくれ、
いゝ子の坊やはねんねした。


[#改ページ]



 昭和六年


  〔無題〕

思ひあまれど猶しばし
云はで堪(こら)へるたのしさよ、
如何にすぐれた歌とても
書いてしまへば旧くなる。
すべて当世(たうせ)のあやまちは
要らぬ言葉の多きなり。


  〔無題〕

寒山は詩を作り、
拾得は釜を焚く。
それで昔は暮された。
ああ一千九百三十年、
わたくしはまた随筆を売る。


  秋の夜の歌

時計を見れば十一時、
秋の夜長の嬉しさよ、
筆さしおきて、また更に
己(おの)が時ぞと胸をどる。

立ちつつ棚の本を抽(ぬ)く。

夜更けて物を読むことは、
田を刈る人が手を止(や)めて
しばらく空を見るよりも
更に澄み入る心なれ。

一のペイヂをそつと切る。

今夜新たに読む本は
未知の世界の旅ぞかし。
初めの程は著者とわれ
少し離れて行くも好(よ)し。

敬ふごとく次を切る。

唯だ打黙(うちもだ)し読むことを
もどかしとする虫ならん、
我れに代りて爽かに
前の廊より声立てぬ。

電灯のいろ水に似る。


  鈴虫

りん、りん、りんと鈴虫の声、
わが背(せな)の方(かた)に起る。
思ひがけぬ虫の声よ、
小暗き廊をつたひて
わが筆執る書斎に入るなり。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
げに其声は鈴を振る。
駄馬の鈴ならず、
橇の鈴ならず、
法師の祈る鈴ならず。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
朗朗として澄み昇る。
聴けば唯だ三節(みふし)なれど、
すべてみな金(きん)の韻なり、
盛唐の詩の韻なり。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
その声は喜びに溢る。
促されずして歌ひ、
堪へきれずして歌ひ、
恍惚の絶巓(ぜつてん)に歌ふ。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
なんぞ傍若無人なる。
寸にも足らぬ虫なれど、
今彼れの心に
唯だ歌ありて一切を忘る。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
彼の虫ぞ自らを恃める。
人間の心には気兼あり、
疚(やま)しき所あり、
諂(へつら)ふことさへもあり。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
誰れか今宵その籠を掛けたる。
わが子らの中の
いづれの子のわざならん、
かの※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ランダに掛けたるは。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
猶かの※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ランダより起る。
すでに午前一時、
その硝子には白からん、
栴檀の葉を通す十五夜の月。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
月の光の如く流る。
虫よ知るや、其処の椅子に、
詩人木下杢太郎博士
十日前に来て掛け給ひしを。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
更けていよいよ冴え渡る。
また知るや虫よ、其の※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ランダは
火曜日ごとに若き女達きて
我れと共に歌ふ所なるを。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
書斎に入りて我れを繞る。
我れは猶筆を捨てず、
よきかな、我が思ひと我が言葉
今は鈴虫の韻に乗る。


  庭の一隅

同じ囲ひのうちに
鶏のむれ、鵞鳥のむれ、
すでに食み終りて
猶も餌を待てり。
餌の無きにあらず、
彼等の目の見難きなり。
見よ、同じ囲ひのうちに
雀の下(お)りて食めるを。
猶よく見よ、餌を運ぶ蟻は
今正に収穫の農繁期なり。


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 昭和七年


  〔無題〕

飢ゑたひよ鳥も食べぬ
にがい、にがい枳殻(からたち)の実、
飢饉地の子供が其れを食べる。
わたしの今日此頃の心も
人知れず枳殻の実を食べる。


  〔無題〕

唯一つ、空(そら)に
さし出した手は寂しい。
しかし、待て、
皆が、皆が、一斉に
手を伸ばす日は来ぬか。


  〔無題〕

わたしは行きます、
ぢつと見ると怖いので、
ただ一人めくらとなり。
どんな音が爆ぜようとも
ただ一人めくらとなり。


  〔無題〕

ひよろ、ひよろとして
枯れてゐる木、
勿論、雑木のはしくれ、
それでも小鳥を遊ばせるに十分な
枯れてゐる木。


  〔無題〕

一人の兵士が斃れた、
前から来た弾丸(たま)のために。
しかし、兵士自身は知つてゐる、
背嚢が重過ぎたのだ、
後ろの重味に斃れたのだ。


  〔無題〕

太つて「空樽(あきだる)」と云はれる人、
はじめは可笑しく見えた、
次に見たら苦し相であつた、
それがまた今日逢つたら
紙製の軽さに見えた。


  〔無題〕

均斉と云ふことが厭で
こんな隅に窓を開けました。
御覧、ここから見えるのは
山の脚ばかり
さうして低い所に野が少し。


  〔無題〕

花粉ばかりなんですが、
余計な花片(はなびら)はないのですが、
わたしは顔を洗ふ水に
毎朝花粉を散らすのですが、
花粉ばかりなんですが。


  〔無題〕

瓶(かめ)に生けた薔薇が
心の奥の薔薇と香り合ふ、
カアテンの隙から日が射してゐる、
心の奥にも射してゐる、
上上(じやう/\)の金と真紅の時。


  〔無題〕

わたしの門前の泥、霜どけの、
これが東京まで続いてゐよう、
丸ビルの口で誰れかが靴を洗つてゐよう、
下級の新聞社員が
また自弁で円タクを飛ばすであらう。


  〔無題〕

今、煙突掃除夫の手、
地獄の底を掻きまはした手、
やけになりきつた手、
痛快を死に賭けて悔いない手、
その母が見たら泣きませう。


  〔無題〕

さうでない、さうでないと
否定ばかりを続けて、
青年が老人になつて行く。
手を挙げよ、
誰れが新しい道を見つけたか。


  〔無題〕

ところが、繋がつてゐるのです、
一つを切ると
一つが死ぬのです、
いや、皆が死ぬのです、
人間と草木とはちがひます。


  〔無題〕

かきまはすと触れあつて
がりがりと音のする
幾塊かの氷片、
バケツの中の世界は
生中(なまなか)[#「生中」はママ]な暖気で政府を失つてゐる。


  〔無題〕

困る、舁(か)く人がゐない、
葬式は出して欲しいのに。
困る、血のつづかぬ同志が
もう棺(くわん)の前でごたごただ。
死人が叫ぶ、聞えない。


  紅顔の死

江湾鎮の西の方(かた)
かの塹壕に何を見る。
行けど行けども敵の死屍、
折れ重なれる敵の死屍。

中に一きは哀しきは
学生隊の二百人。
十七八の若さなり、
二十歳(はたち)を出たる顔も無し。

彼等、やさしき母あらん、
その母如何に是れを見ん。
支那の習ひに、美くしき
許嫁(いひなづけ)さへあるならん。

彼等すこしく書を読めり、
世界の事も知りたらん。
国の和平を希(ねが)ひたる
孫中山(そんちゆうざん)の名も知らん。

誰れぞ、彼等を欺きて、
そのうら若き純情に、
善き隣なる日本をば
侮るべしと教へしは。

誰れぞ、彼等を唆(そその)かし、
筆を剣(つるぎ)に代へしめて、
若き命を、此春の
梅に先だち散らせるは。

十九路軍の総司令
蔡廷※(「金+皆」、第4水準2-91-14)(さいていかい)の愚かさよ、
今日の中(うち)にも亡ぶべき
己れの軍を知らざりき。

江湾鎮の西の方
かの塹壕に何を見る。
泥と血を浴び斃れたる
紅顔の子の二百人。
(右、読売新聞記者安藤覺氏の上海通信を読み感動して作る。)


  〔無題〕

白く塗つた椅子を一つ
芝の上に出したら、
それが白馬(はくば)になつて飛ばうとする。
お待ち、お待ち、天へ昇るのは。
まだ足らぬ、春風が。


  〔無題〕

魯迅と郭沫若と、
胡適と周作人と、
彼等とわたしの間に
塹壕は無いのだけれど、
重砲が聾にしてしまふ。


  日本国民 朝の歌

ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。

空疎の議論こゑを絶ち、
妥協、惰弱の夢破る。
正しき方(かた)に行くを知り、
百の苦難に突撃す。

身は一兵士、しかれども、
破壊筒をば抱く時は、
鉄条網に躍り入り、
実にその身を粉(こ)と成せり。

身は一少佐、しかれども、
敵のなさけに安んぜず、
花より清く身を散らし、
武士の名誉を生かせたり。

其等の人に限らんや、
同じ心の烈士たち、
わが皇軍の行く所、
北と南に奮ひ起つ。

わづかに是れは一(いつ)の例。
われら銃後の民もまた、
おのおの励む業(わざ)の為め、
自己の勇気を幾倍す。

武人にあらぬ国民も、
尖る心に血を流し、
命を断えず小刻みに
国に尽すは変り無し。

たとへば我れの此歌も、
破壊筒をば抱きながら
鉄条網にわしり寄り
投ぐる心に通へかし。

無力の女われさへも
かくの如くに思ふなり。
況(いはん)やすべて秀でたる
父祖の美風を継げる民。

ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。


  日本新女性の歌

東の国に美くしく
天の恵める海と山、
比べよ、其れに適はしき
我等日本の女子あるを。

中にも特にすぐれたる
瀬戸の内海(うちうみ)、富士の雪、
その優しさと気高さは
やがて我等の理想なり。

我等は抱(いだ)く、朗らかに
常に夜明の喜びを。
心の奥に光るもの
春の日に似る愛なれば。

日本の女子は誇らねど、
深く恃(たの)める力あり。
軽佻浮華の外(ほか)に立ち、
真の文化に生きんとす。

技術と学の一切を
今ぞおのおの身に修む。
斯くして立つは新しき
御代の男子の協力者。

聡明にして優雅なり、
慎ましくして勇気あり。
匂へる処女(をとめ)、清き妻、
智慧と慈悲とを満たす母。

固より女子の働くは
遠き祖先の遺風なり。
男子と同じ務めにも
共に奮ひて進み出づ。

桜と梅のひと重、八重、
開く姿は異なれど、
御国(みくに)のうへに美くしく
すべて香れる人の華。


  寿詞

    蘇峰先生古稀
大地の上に降(くだ)り来て
文章星(ぶんしやうせい)の在(いま)すかな。
三代(みよ)の帝と国民(くにたみ)に
報ゆる心澄み徹る
時代の先駆、蘇峰先生。

想は明健まどかにて、
筆は暢達はなやげり。
常に四方(しはう)を警(いまし)めて
仮りの一語も生気あり。
天下の恩師、蘇峰先生。

当世(たうせ)の韓蘇(かんそ)、大史公(たいしこう)、
奇しき力を身に兼ねて、
七十路(ななそぢ)経たる来し方も
千歳(ちとせ)の業(わざ)を立てましぬ。
老いざる巨人、蘇峰先生。

寿をたてまつる、先生よ、
とこしへ若くおはしませ。
豊かに高きその史筆
明治の篇を結びませ。
燦たる光、蘇峰先生。