晶子詩篇全集拾遺

與謝野晶子

晶子詩篇全集拾遺書籍情報

底本:「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社
   1980(昭和55)年8月10日第1刷発行
   「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社
   1980(昭和55)年12月10日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※標題のない作品については、[無題]と記載しまた。
※各詩編の行の折り返しは、底本では1字下げになっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出、収録された単行本等に関する情報は、ファイルに含めませんでした。
入力:武田秀男
校正:kazuishi

晶子詩篇全集拾遺 4

與謝野晶子

  〔無題〕

銀座であつたと、人の噂、
それはもうベルが鳴らない前の事。
浮動層のあなたに、
併し猶、映写幕に消えぬ
新居格先生のプロフイル。


  衣通姫

    (今井鑷子女の新舞踊のために作る。)
今宵のこころ躍るかな、
君来たまふや、来まさぬや、
隔てて住めば藤原も、
近江国にことならず。

あやしく躍る心かな、
何がつらきか、此世には、
思ひあへども逢はぬこと、
逢はれぬことに如(し)くぞ無き。

心うれしく躍るなり、
身に余りたる我が恋は
君知らしめせ、忍びかね、
衣(きぬ)を通して光るとも。

こころぞ躍る、この夕、
君来たまはんしるしなり、
蜘蛛は軒より一すぢの、
長き糸こそ垂れにけれ。


  森の新秋

今日の森は涼し、
わたり行く風の音
はらはらと旗を振る。

濃いお納戸(なんど)の空、
上の山より斜めに
遠き地平にまで晴れたり。

まろく白き雲ひとつ
帆の如くに浮び出で、
その空も海に似る。

森の木は皆高し、
ぶな、黒樺、稀れに赤松、
樹脂の香(か)の爽かさ。

太陽は近き幹をすべり、
我が凭る椅子の脚にも
手を伸べて金(きん)を塗る。

かのぶなの枝に巣あり、
何の小鳥ぞ、胸は朱、
鳴かずして二羽帰る。

紅萩、みじかき茅、
りんだうの紫の花、
猶濡れたれば行かじ。

我れは屋前の椅子に、
読みさせる書をまた開く。
秋は今日森に満つ。


  〔無題〕

蒋介石に手紙を出したが、
届いたと云ふことを聞かぬ。
聞違つてゐた、
わたしは唐韻の詩で書いた、
商用華語を知らないので。


  〔無題〕

煙突男が消えたあと、
銀座の柳が溺れたあと、
流行の洪水に
ノアの箱舟が一艘
陸軍旗を立てて来る。


  〔無題〕

切腹しかけた判官が
由良之介を待つてゐる。
由良之介が駆けつける。
シネマを見馴れた少年は
お医者と間違へる。



[#改ページ]



 昭和八年


  冬晴

今日もよい冬晴(とうせい)、
硝子障子にさし入るのは
今、午前十時の日光、
おまけに暖炉(ストオヴ)の火が
適度に空内を温(あたた)めてゐる。

わたしは平和な気分で坐る。
今日一日外へ出ずに済むことが
なんとわたしを落ち著かせることか。
でも為事(しごと)が山を成してゐる、
せめてこの二十分を楽まう。

硝子越しに見る庭の木、
みな落葉した裸の木、
うす桃色に少し硬く光つて、
幹にも小枝までにも
その片面が日光を受けてゐる。

こんな日に何を書かう、
論じるなんて醜いことだ。
他に求める心があるからだ。
自然は求めてゐない、
その有るが儘に任せてゐる。

わたしは此のひまに歌はう、
冬至梅(とうじばい)に三四点の紅(べに)が見える、
白い椿も咲きはじめた、
花の頬と香りの声で
冬の日にも自然は歌つてゐる。

裸の木の上には青空、
それがまろく野のはてにまで
お納戸いろを垂れてゐる。
二階へ上がつたら
富士もまつ白に光つてゐよう。

風が少しある、
感じやすい竹が挨拶をしてゐる。
あたたかい室内で
硝子ごしに見ると、
その風も春風のなごやかさである。

苛酷な冬の自然にも
こんな平和な一日がある。
師走の忙しさは嵐の中のやうだ、
それは人間のこと、
自然は今、息を入れて休んでゐる。


  霧氷

富士山の上の霧氷、
それを写真で見て喜んでゐる。
美くしいことは解る、
それがどんなに寒い世界の消息かは
登山者以外には解らない。
あなたにわたしの歌が解りますつて、
さうでせうか、さうでせうか。


  来客

彼れは感歎家にして慷慨家、
形容詞ばかりで生きてゐる。
また他の一人の彼れは計画家、
建築の経験を持たない製図師。
忙しい師走の半ばに
二人のお相手は出来ない、
わたしは失礼して為事をする。
お客同志でゆつくりとお話し下さい。


  暖炉

灯をつけない深夜の室に、
燃え残つたストオヴが深紅に光る。
ストオヴは黙つてゐる。
それを自分の心臓だと見るわたしは
炭をつぎ足さうかと思ふ。
いや、誰れが手を温(ぬく)める火でもない、
独り此の寂しい深紅を守らう。


  或人に

わたしには問はないで下さい、
「あなたの心の故郷(ふるさと)は」なんて
クリスチヤンじみたことを。
誰れが故郷を持つてゐると云ふのです。
みんな漂泊者である日に、
みんな新世界を探してゐる日に、
過去から離れて、みんな
蒙昧を開拓しようとしてゐる日に。
それよりも見せて下さい、
あなたに鶴嘴を上げる力があるか、
一尺の灌漑用の水でも
あなたの足元の沙から出るか。


  〔無題〕

ちび筆に線を引きて
半紙に木瓜の枝を写生し、
赤インクにて花を描(か)く。
末の娘、見て笑ふ、
母の木瓜には刺無し。