晶子詩篇全集拾遺

與謝野晶子

晶子詩篇全集拾遺書籍情報

底本:「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社
   1980(昭和55)年8月10日第1刷発行
   「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社
   1980(昭和55)年12月10日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※標題のない作品については、[無題]と記載しまた。
※各詩編の行の折り返しは、底本では1字下げになっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出、収録された単行本等に関する情報は、ファイルに含めませんでした。
入力:武田秀男
校正:kazuishi

晶子詩篇全集拾遺 7

與謝野晶子

  九段坂の涼夜

九段の坂の上に来て、
大東京の中央に
高く立つこそ涼しけれ。

まして今宵の大空は
秋にも通ふ色をして、
濃いお納戸(なんど)の繻子(しゆす)を張り、

しとどに置ける露のごと、
星みな白くまたたくは、
空にも風のそよぐらん。

見下ろす街は近きより
遠きへかけて奥のある
墨と浅葱(あさぎ)を盛り重ね、

飾りとしたる灯の色は
濡れたる金(きん)に交へたり、
紅き瑪瑙とエメラルド。

ここにて聴けば、輪の軋り、
汽笛の叫び、それもまた
喜び狂ふ楽となり、

今宵の街を満たすもの、
行き交ふ袖も、私語(ささめき)も、
すべて祭の姿なり。

かかる心地に、我れ曾て
モンマルトルの高きより
宵の巴里(パリイ)を眺めけり。

おなじ心地に、今宵また
明るき御代の我が都
大東京を観ることよ。

いとま無き身に唯だ暫し、
九段の坂の上に来て
高く立つこそ涼しけれ。


  北信の歌

    (山崎矢太郎氏の詩集に序する擬古一章)
わが恋ふる北の信濃は、
雲分けてむら山聳え、
沙わしり行く川長し。
あけがたの浅間のふもと、
たそがれの碓氷の峠、
幾たびも我れを立たしめ、
思ふこと尽くべくも無し。
子らと来てまたも遊ばん、
夫子(せこ)と居て常に歌はん、
飽くことを知らぬ心に
かくさへも願ふなりけり。
ましてまた松川の奥、
紅葉する渓の深さよ。
小舟(をぶね)をば野尻に浮べ、
いで湯をば野沢に浴びて、
霧を愛で、月をよろこび、
日を経ればいよいよ楽し。
往きかへり、千曲(ちくま)の川の
橋こえて打見わたせば、
とりどりに五つの峰の
晴わたる雲を帯ぶるも、
云ひ古りし常の言葉に
讃ふべきすべの無きかな。
旅の身はあはれと歎き、
唯だ暫し見てこそ過ぐれ。
羨まし、この国の人
常に見てこころ足るらん。
言(こと)を寄す、その人人よ、
今の世の都に染まぬ
新しく清き歌あれ、
この山と水に合せて
美しく高き歌あれ、
なつかしく光りたる国
北の信濃に。


  小鳥の巣(押韻小曲)

蔭にわたしを立てながら、
優しく物を云ひ掛ける。
もう落葉した路の楢。
楢とわたしは目で語る、
風が聴かうと覗くから。
   ×
杉にからんだ蔓を攀ぢ、
秋の夕日が食べてゐる、
山の葡萄の朱の紅葉(もみぢ)。
ちぎれて低く駆けて来る
雲は二三の野の羊。
   ×
わたしを何処へ捨てたのか、
とんと思ひがまとまらぬ。
がらんとしたる空(くう)のなか、
前に尾を振る白い犬、
これを眺めてもう七日(なぬか)。
   ×
裾野の路に、たくたくと、
二町はなれた森にまで
秋にひびかす靴のおと。
わたしは森の端に出で、
呼びたけれども、旅の人。
   ×
秋の日ざしに照り透り、
蔦の紅葉(もみぢ)がさつと散る。
どれも身軽な紅い鳥。
今日は深山(みやま)の崖となる、
見上げる壁に一しきり。
   ×
既に云ひ得ず、今の史家、
未来の史家も誤らう、
時を隔てて何知らう。
真の批判が世にあるか、
自負する人は寒からう。
   ×
ハンドバツクを持つ振も
みなが凜凜しく、大事らし、
そして鋪道を西ひがし。
霜に曇つたこの朝も
職ある娘はいそぎ足。
   ×
霜ふらぬ間(ま)に園の薔薇、
乏しけれども秋の薔薇、
純情の薔薇、夢の薔薇、
これを摘まずば寂しかろ、
べにと薄黄に香る薔薇。
   ×
泣かずともよい高い木も、
露が置くとて泣いてゐる、
霜が降るとて泣いてゐる。
泣くのが無理か、真昼にも
蔭に日を見ぬ草の蔓。
   ×
どこをどうして来たことか、
ひまある人は振り返る、
清い浜べとまるい丘。
常にわたしは馳せとほる、
いばら、からたち、岩のなか。
   ×
三分(さんぶ)ばかりの朱をば擦る、
枇杷の葉ほどの小硯に、
指の染むのも嫌はずに。
朱は擦るたびに低くなる、
地平の末の日のやうに。
   ×
落葉が揺れる、
蜘蛛の巣にひと葉、
鉢の水にひと葉。
空ゆく月は笑つてる、
見よ、美くしいあの白歯。
   ×
戸のすきまより、寒き月、
三尺の長さなる
しら刄を内に送る。
我れはこの時、
退屈を二つに斬る。
   ×
今なり、
心にある深山(みやま)の川、
寒き月きたり照すは。
我れは独り歩めり、
凍らんとするそのみぎは。
   ×
手ごたへを聴かぬ限り
おろす、おろす、おろす――錨
その末に――音――かちと、
今われの自(みづか)らに触れたるなり、
聴くことの楽しさよ、独り――かちと。
   ×
わたしを痛く刺したれど、
秋まで残る蚊のこころ、
秋に堪へても生きたかろ。
世にあることは唯だ一度、
刹那の後(のち)は虚無の白。
   ×
みぞれ降る日に開け放ち、
黒き小机、
生けたるは茶の花ひと枝(え)。
あるじなほ縁に立ち、
鋏刀(はさみ)あり、円座の上。
   ×
本(もと)をただせば痩我慢、
それを通したかたくなが
仮に堅めた今日(けふ)の性(さが)。
沙の塔ぞと人云はん、
押せばくづるるわたしの我(が)。
   ×
ボタンを押せばベルが鳴り、
取次を経て座に通る、
なんとかずかず手間が要る。
わたしの客はわたしなり、
逢ひたい時に側にゐる。



[#改ページ]